大晦日──。  田沢湖駅で降りた客は、二人と一匹だけだった。  折しも、雪降りしきる夕刻。肌を刺すような寒さが、彼らを出迎える。  二人と一匹は、列車が行ってしまうのを見送ると、改札へと歩いた。  一人は黒い着物を着た、年の頃はまだ一〇歳にも満たないであろうか? 背の小さな少女だった。番傘を持ち、とてとてと歩くその所作はまるで七五三のよう。  もう一人は自分の背丈に余るほどの長い包みを抱え、その足取りは少しおぼつかない、銀髪の少女。先の着物の少女よりは少しだけ背が高い。包みの中身は形から想像するに薙刀であろう。背には深編み笠、腰には打刀が二振り。物騒な出で立ちだ。そして極めつけは深緑の色鮮やかな袴が目立つ、巫女装束を身につけていた。  最後の一匹はほぼまん丸と言って良い、おそらくは、いや、たぶんではあると思うが、黒猫であった。唐草模様の風呂敷包みを背負い、きりりとした表情はしているものの、どうみてもまん丸いので緊張感は伝わってこない。  それも当然で、この黒猫は寒いのを堪えるばかりに表情が険しくなっているだけなのである。  黒の着物の少女はガラス張りの駅舎から出ると、持っていた番傘をさしながら口をへの字に曲げて恨めしそうに天を見上げた。  空からはぼた雪が、無節操にぼとぼとと堕ちてくる。  それは無限に幾重にも続いているように見え、遠近感が少し狂う。 「まったく……」  着物の少女から、大きなため息が聞こえてくる。 「朝の六時には出たというのに、ついたのは夕方とは一体どういうことだ?」  そして恨めしそうに、ガラス張りの駅舎を見上げた。 「昨晩からの大雪で除雪作業が手間取ったのだから、しかたない」  もう一人、巫女装束の少女が深編み笠をかぶると、ぼそりと口答えした。 「盛岡で半日近く待たせおってからに……」 「電車が出ないと聞いて、嬉々としてわんこそば食べに行った口が、それを言うかぬ」  ずっと黙っていた黒猫が、初めて口を開いた。どうやらこの猫は言葉を喋るらしい……。 「ん、あー、いや一二杯で敗北したことは認めよう」  わんこどころか、最初に出された二〇杯も完食できなかった。とはいえその小さな身体では当然かもしれない……。  しかもその後、食べ過ぎで二時間は動けなかったのだ。 「出してくれただけ有難いと思うぬ」 「三〇〇〇円も取られたぞ。わたしはお代わりしてないのに」 「その値段は量に関係ないぬ」 「納得がいかん」 「わたしは、元が取れた」  一方の巫女装束の少女はぽんぽんとお腹を叩くと、満足そうに微笑んだ。よく見ると腰紐には一〇〇杯以上食べるとお店からもらえる手形がぶら下がっている。どうやらこの少女は、わんこそばを一〇〇杯以上平らげたようだ。 「ちあらのどこに、それだけの蕎麦が入ったのか、不思議で仕方がない」  着物の少女は巫女装束の少女、月夜野ちあらのお腹を軽くさすりながら、首をかしげる。確かに中はパンパンに詰まっているような感じはする。 「この手形、欲しかったから」  ちあらは誇らしげに、一〇八杯と書かれた手形を掲げた。 「クッ、羨ましくはないぞ」  着物の少女はぷいとそっぽを向くと、歩き始めてしまった。 「黒翼、くやしそう」  ちあらがぼそりとつぶやきながら、後に続く。 「わたしを呼ぶときは、様をつけろと何度言えばわかる」 「今はわんこそばでわたしが勝ったから、様をつけなくてもいい」 「な! いつ勝負すると言った!?」 「悔しそうにたから、私の勝ち。間違いない」 「ぐ……」  他愛もない会話が続きながらも、駅前の道路を渡り、バスやタクシーの乗り場があるロータリーへ。 「んー、タクシーは………と」  黒翼は自然とバス乗り場へは向かわず、タクシー乗り場へと足を向けるが、それをちあらが腕を伸ばして黒翼の着物の首裾をつかんで制止した。 「んが!」  急に首を捕まれたものだから、足だけが前に出て思わず後ろへずっこけそうになる。 「なにをするか!」  ちあらの手を振り解くと、黒翼は番傘でちあらの手の甲をペシリと叩いた。 「タクシーは高い」  するとちあらは先ほどのわんこ蕎麦のレシートを黒翼の前に突きだした。一人三〇〇〇円、二人で六〇〇〇円、消費税込みで六四八〇円である。充分、タクシー代になったはずだ。 「何を言うか、時はすでに一七時を回っている。急がねば……!」 「そんなに急いでいるなら、術で来るべき」 「これから山ほど術が必要になる。今は術を使うべきではない。それに……」  黒翼は言葉を切ると、真剣な表情をした。  これからの自分たちの行いが、果たして正しい選択なのかどうか……黒翼は考える時間が欲しかった。  考え、悩み、そして決断するための時間が、少なくとも必要だった。  そしてこの田沢湖町駅に降り立ったとき、黒翼は決めたのだ。  だからこれからは一刻も早く、その決めたことを実行しなければならない。 「それに?」  黒翼の真面目な表情から、続く言葉が重要だと思ったちあらは、立ち止まって次の言葉を待った。 「いや、やはりバスで行こう」  他に最善手がないか考え続けることは必要だと黒翼は思った。  もう少し考えよう。  バスでかかる時間の分だけ。 *  *  *  八幡平行きのバスの中はこれまた二人と一匹だけだった。  だがそれよりも何よりも、車内が暖かいのが救われた。一二月に入ってからこっち、東北は雪が多いようで、周囲の景色も白一色だった。  ゴトゴトとストロークの長い揺れに二人と一匹は長いシートに身を任せると、なんとなく外を眺めた。  相変わらず激しく雪が降り続いている。  聞こえてくるのは、バスのエンジン音と、そして車体の軋む音だけ。  程なくするとバスは坂を上がっていく。  その坂からは田沢湖が広がっているのがよく見えた。  大雪が降っているというのに、その湖面は濃く、深く、美しい青色が広がっている。  龍の湖だ。 「ん……目指すは草薙旅館?」  不意に、隣りにいたちあらが沈黙を破った。 「そう。わたしがかつて居候していた。ここからそう遠くない。一〇分か二〇分乗っていればつく」  黒翼はちあらの方にも向かず、そう答えた。 「ん……これ」  するとちあらは懐からスマートフォンを取り出すと、画面を横にして黒翼に見せた。 「なに?」  黒翼はめんどくさそうにしながらも、差し出された画面へと視線だけ送る。  画面には地上デジタル放送が写し出されており、そこには見覚えのある旅館が映っていた。 『はい、そうなんです、今日は大晦日。秋田の大晦日と言えば……! そう、なまはげですよね。なまはげといえば男鹿半島を中心に……』  なにやらレポーターが見覚えのある旅館の前で、なまはげの話をしている。 「なんだこれは」  めんどくさそうにしていた黒翼の目が見開かれ、その後、さらによけいにめんどくさそうな表情になった。 「NHK が草薙旅館に来てる。これ、生中継。駅にあったテレビを見たとき、見覚えのある旅館の名前だったから、まさかとは思ったけど」 「…………」  時刻は一七時三〇分を少しまわったところ。夕方からの情報番組か、ニュース内の一コーナーであろう。  画面の右上端には「秋田県田沢湖町、なまはげでお客さんの厄払い」などというテロップが表示されている。 『なんとこの草薙旅館では旅館の従業員の皆さんが、なまはげに扮して宿泊客のお子さん達のところをまわっていくというイベントをしてるんです』  スマートフォンの低音がまったく聞こえないキンキンしたレポーターの声がバスの中に響き渡った。 「よりにもよって、なんでこんな時に……」  黒翼はちあらから奪うようにスマートフォンを取り上げると、ギリリと歯を噛みしめた。自然と身体全体に力が入る。  と、同時に自分の決めた心が、少し揺らぐのが解る。  第三者の存在はその決心を揺るがす。  いや、もう決めたことだ。そこに何があろうが……。 「なにがあろうと、やるしかない」  ちあらも決心は固いようで、深くうなずく。 「もう時は、待ってくれない」  そして、肩に立て掛けていた薙刀を、しっかとつかんだ。 「……」  黒翼は、ただ、無言だった。 *  *  * 「かなちゃ〜ん! かなちゃん用のなまはげのお面、やっとできたよ」 「お、おう、ちょっと待ってくれ……お客さんの邪魔にならないようにテレビの人を誘導しないと……」 「えっと、お子さんがいる部屋はわかる?」 「あぁ、叶からリストをもらってるよ」 「すみません、女将さんはどちらにおられますか? インタビューに……」 「え? あ、それなら汐……若女将に」 「え、私?」 「D!広間撮ったら、次どの部屋からまわるんすか? カメラ、廊下で渋滞しちゃってますよ!」 「リハーサルしただろ! 憶えてないのか!」 「部屋リストとリハーサルの道順がなんか違うんすよ」  一方の草薙旅館は、テレビの対応で大わらわだった。  旅館にテレビが来るのは初めてだし、大晦日と言うこともあって年末年始を過ごすお客で客室は全て満室だった。  廊下という廊下には電源と信号のケーブルが張り巡らされ、要所要所に照明が焚かれている。  そこをちょっと済まなそうに宿泊客がケーブルをよけながら歩く。  まぁ大変なのはなまはげイベントをするほんの数時間の間だけだ。  などとこの旅館の若旦那、草薙枢は思った。 「じゃ、もう一回ルートの確認を」 「若女将さんはこちらでインタビューを」 「あ、はいはい」 「はーい」  若旦那の草薙枢は大広間へ、若女将の草薙汐はTVクルーに先導され、草薙旅館の表玄関へと向かった。  二人ともまだ草薙旅館を継いではいないため、「若」がついている。  表玄関へ出ると、そこもTVクルーでいっぱいだった。地面には無数のケーブル、よく解らない放送機器類、表には中継車。カメラマンはそれらがうまく入らないように、汐の姿を映し出した。  降りしきる雪に、汐の真っ白な髪が溶け込みながらも、美しくなびく。 『スタジオの皆さん〜、それではこの旅館の若女将、汐さんに来ていただきました』 『こんばんはー』 『凄く可愛らしい女将さんですね』 『え……そんな……』 「汐だ」  バスの中でスマートフォンを見ていた黒翼が、ぼそりとつぶやく。 「これが白龍……」  ちあらがゴクリと生唾を飲んだ。いつの間にか緊張している自分に気付く。 「一番の障害は、この汐と……」  それからテレビの画面を隅々までのぞき込むが、もう一人の厄介者が見つけられなかった。 「ターゲットはどこ?」 「テトメトがみつける」 「吾が真っ先に旅館に潜り込んで、見つけるぬ」 「汐の相手はわたしがする」 「わかった」  バスから降りると、寒さに一震いして、テトメトが旅館の方へと駆けていった。ずんぐりとした身体なのに、素早く塀に駆け上がると、旅館の向こうに消えていく。  バス停からは草薙旅館の入り口が見え、中継車やTVクルー用のワゴンが何台が止まっているのが見える。  ちあらが拵袋のヒモを解き、いつでも刀を抜けるように、鞘ごと帯にセットする。 『草薙枢、発見ぬ』  二人の頭の中に、テトメトの声が届く。  同時に旅館内の様子がまるで走馬燈のようにばばばばーっと二人の頭の中に展開され、それは屋根のない上空から映した映像になり、ちょうど見取り図となった。  玄関から大広間への道順が示され、そこに至るまでと大広間にいる人間の数とそれぞれの役割、そして草薙枢の位置が記される。 「薙刀をテトメトに預ければよかった」  ちからがぼそりとつぶやく。 「もう一人の厄介者が出てきたら、薙刀は必要かもしれない」  黒翼がテトメトにその厄介者の名前を送る。 『ちょっと待つぬ』  そう言っている間にも、玄関から広間までの様子は逐一、二人の脳内に送られてくる。せわしなく行き来するTVクルー、広間には撮影用に集められたと思われる、宿泊客の子供と親たち、打ち合わせをしているTVディレクタと草薙枢。  玄関口の汐のインタビューが終わったら、枢のところにカメラが切り替わるのだろうと黒翼は予想した。 『紗乃末璃は、隣の部屋でなまはげの準備をしてるぬ』  部屋のフォーカスが、麩で仕切られたもう一つの大広間に移る。そこには従業員達がなまはげの格好をして出番を待っている。 『紗乃末璃は丸腰ぬ』 『わかった術だけは使わせるな』 『御意ぬ、紗乃末璃は吾がマークするぬ』  会話はここで終了である。あとは、行動するのみ。  黒翼は番傘を差すと、バス停から草薙旅館へとゆっくりと歩き出した。  ちあらがそれを見送る。  雪は相変わらず、激しく降り続いていた。  黒翼の姿が消えると、ちあらはスマートフォンを取り出して、中継を見る。まだ汐のインタビューは行われていて、その後ろを黒翼の番傘が通っていくのが見えた。 『あ、え、ええ!? クロちゃん!?』  すーっと自分の後ろを通り過ぎていく黒翼に気付き、インタビュー中にもかかわらず、汐はびっくりして後ろを振り返ってしまう。 『若女将さん!?』  インタビュアーが慌てて汐を注意する。 『あ、わ、ご、ごめんなさい、座敷童子が帰ってきたから……びっくりして』 『え、座敷童子ですか? 今の和服を着た女の子がですか? 座敷童子って……見えるんですね』  レポーターもあまりにも予想外の答だったので、アドリブができずにキョトンとしてしまう。 『あ……』  汐はレポーターの言葉で我に返り、黒翼が座敷童子なんかではないことに気付く。  黒翼が求めていたものは既にこの町にはない。  その後、どこに行ったのかも、汐は知らなかった。  それなのに、何故この旅館に戻ってきたのか。  もし戻るなら、この土地の神であり、そして龍でもある自分にまず戻ることを知らせるのではないのか? 『すみません! 放送をいったん中断していただけますか!?』  汐は胸騒ぎがして、すぐに黒翼の後を追った。 『あ、若女将さん!?』  と、レポーターが汐を追いかけようとしたところで、映像がスタジオへと切り替わった。  ちあらは深編笠をより目深にかぶると、バス停から飛び出し、一気に草薙旅館の前にいたカメラクルー三人をほぼ瞬時に落とした。急所を突かれて、ぐらりとカメラマンが折りたたみの椅子から転げ落ちる。  と同時に、中継車に走り込む。  映像の異常に気付いた一人が中継車から出ようとしていたところだったが、まずその一人を転かして急所を打つ。同時に鈍い音。どうやら転かすときに膝の関節をやってしまったようだった……。ちあらは心の中で謝りながらも、TVクルーの首を絞め落とした。  すかさず、中継車の中に入り、中にいた二人も落とす。  中継車の外に出ると、レポーターが半ば諦めの表情で、マイクを握ったまま玄関口から出てきたところだった。  そのレポーターに向かってちあらは一気に間を詰めると、今までと同じように、頸動脈を打った。  ぐらりと足から崩れ落ちるレポーターの頭をそっと抑え、そのまま頭を打ってしまわないように、ゆっくりと寝かせると、ちあらは一段落と言った様子で、ふぅと短くため息をついた。  もともとTVの中継などなければ、いらない動作だった。  一方の黒翼は、早足で長い廊下を突き進んでいた。  太いケーブルをまたぎ、TVクルー達を避けながら、どんどん進んで行く。  そして大広間の前まで来ると、そこでたむろしているカメラマンやAD達を見上げて話しかけた。 「この向こうが、撮影現場かな?」 「お、客の子かな?」 「入れて差し上げろ」 「もうすぐ撮影だからね、入ったらメガネのおじさんの指示に従ってね」  等と言われながら、黒翼は大広間へと通された。  大広間では右奥に宿泊客がいるのが見えた。子供と、その父兄。  視線をもう少し手前に移すと、何かメモを見せあいながら会話をしている草薙枢とTVのディレクター。  左側には麩がならんでいて、このふすまの向こうになまはげが待機しているのだろう。  人が多すぎる、と黒翼は思った。 「異常に気付いたら、客達を優先してこの広間から逃げるように誘導して」  黒翼はそばにいたTVクルーに、そう話しかけると、広間へと足を踏み入れた。 「は?」  というTVクルーの言葉を背に、黒翼は初めはゆっくりと、それから徐々に早足になりながら、畳の上を無音で草薙枢に向かう。同時に持っていた番傘を後ろに構えた。 「かなちゃん!!!」  汐の叫ぶ声。  その声に気付き、顔を上げる枢。  その枢の胸元には、すでに黒翼がいた。 「うお!?」 「お命、頂戴…!」  とは言ったものの、汐が間に合っている時点でこの攻撃は当たらないなと黒翼は頭の中で思う。 「おうわ!!」  案の定、枢とTVディレクターはなにやら強い風を受けて、広間の向こうの方へ飛ばされていく。黒翼が番傘を振りかざす余裕もなかった。 「チッ……汐め」  舌打ちをする黒翼。  自分を飛ばすよりも、ただの人間である枢やTVディレクターを飛ばす方が遥かに楽である。とっさの判断でも汐が冴えていることを、黒翼は確信した。  黒翼は畳を蹴ると、一瞬で枢の懐に飛び込む……つもりだったが、手に持っていた番傘がバラバラになっていく。  白いキラキラと光るものが宙を舞い、番傘をズタズタに切り裂いていた。 「あーあ、高かったのに……」  黒翼は柄だけになった番傘をぽいと捨てると、またもう一本、どこからか番傘を取り出す。 「いててて……何が何だか……確か黒翼がいたような気がするんだが」  一方の枢は頭をさすりながら、ようやく起き上がる。  顔を上げると、いつの間にか汐が自分の前に立っており、そしてその向こうに番傘を持った黒翼が見えた。 「お客さんを広間の外へ!!」  汐が叫ぶ。  同時に広間の中が騒然となった。 「なんだなんだ?」  事態を把握していない枢は、起き上がりながらも廊下への大広間の麩を解放した。TVクルーたちも客を両香川へと誘導する。 「これは鱗か……」  黒翼は宙を舞う、白くキラキラ光るモノを一つつかむと、天井の明かりに透かす。  鋭く、固く、そして美しい、龍の鱗。 「クロちゃん、いったいどういうことなの? いきなりこんなことして……」 「話してる時間は無いんだな、これが」  指で弄んでいた鱗をはじき飛ばすと、黒翼は番傘をいったん後ろへ引き、再び畳を蹴って跳躍した。が、それは大きく迂回して斜め後方から枢を打とうとする。汐が精一杯の反応速度で、枢の前に自慢の白い鱗を飛ばすが、そこに黒翼の姿はなかった。  上!?  汐は枢を突き飛ばして、自分が黒翼の標的になろうとした。むろん、ただではやられない。黒翼に向かって、ありったけの白い鱗を飛ばす。  しかし黒翼が持っている番傘は、同じ攻撃は効かなかった。  黒翼は番傘を開くと、それらを全てはじき飛ばして、汐の前へと番傘ごと降ってくる。  汐はすんでのところで、身体をダイブさせて、黒翼をかわした。  黒翼が接地すると同時にズンという重い音がして、床が崩壊し、畳がめくれ上がった。 「うぁぁぁ、おい、なにをするんだ!」  旅館を破壊されて、思わず大声を上げる枢。 「いいから、かなちゃんは逃げて…!」  そう言いながら、汐は腕を広げてから何か印を結ぶような動作をした。  すると風が吹き始め、同時にどこからともなく水が空間から染みだす。 「おぉ、プラズマティックウォール……!」  雪と風と、そして汐の鱗によって築かれた水の壁は、まるで竜巻のように円を描き、黒翼を取り囲んだ。  渦巻く水は、電灯の明かりを反射して、美しい虹色を見せた。  この渦巻きに触れれば、例えダイヤモンドでも粉々に粉砕されてしまうだろう。  さらに魔の力も通さないはずだ。 「うーん、あんまり時間がかかると、説明した方が早くなるじゃないか……」  黒翼が頭をボリボリと掻く。  実はそこは汐も不思議に思っていた。  黒翼の急襲は納得がいかないにしても、そもそも本気で枢を殺すつもりなら、とっくにできていたはずなのだ。  いくら自分が龍であり、様々な能力が使えたとしても黒翼に敵わないことは、初めてこの地に黒翼が来た時から解っている。自分でも知らない様々な術を黒翼は使えるし、同じ術でも黒翼の方が強い。  だがこうして黒翼が接近戦に拘っているのは、手加減している証拠なのだ。  どうして手加減しているのか?  理由は解らないが、少なくとも何とか枢を守り通せば、黒翼は諦めてくれるのではないか……と、汐は心の片隅に希望を持っていた。 「お願い、もうやめて、クロちゃん……!」  ググッと汐の作った水渦の壁が黒翼に迫る。  しかし黒翼は恐れもせず、薄笑みを浮かべるだけ。  不気味だった。  次に何をしてくるのか……。  汐は何の術を用意すればいいのか、見当がつけられなかった。  このまま黒翼を押しつぶしてしまっていいものか?  いや、逆に、それを黒翼は待っているのか……?  すると黒翼がどこかを見た。  自分の遙か後方。  大広間の入り口の辺り?  いや、騙されない。その動作は、黒翼の罠だと、汐は思った。  そんな簡単な仕掛けを黒翼がするはずがない。  しかし、これが汐の最大の間違いだった。  黒翼は月夜野ちあらがこの大広間に到達したのを、目で確認したのだ。  運良く、汐もそして枢も黒翼しか見えていない。 「風雲急を告げると言う」  黒翼は音もなく接近してくるちあらの速度に合わせて言葉を紡ぐと、汐と目を合わせた。  ちあらはすでに両手に打刀を抜いている。 「な、なに?」  汐が警戒心を露わにする。 「聞け、高志之八俣遠呂知(コシノヤマタオロチ)、目醒めたり!!」  黒翼の声が大広間に響き渡った。  しかし黒翼の言葉の意味が理解出来たのは、汐だけだった。  そしてその言葉は、汐の時を止めるに充分な意味が込められていた。  高志之八俣遠呂知、目醒めたり。  一字一句を確かめるように、汐は頭の中でその言葉を反芻した。  そしてすべてを理解した。  なぜ、  黒翼が、  草薙枢を、  殺しに来たのか! 「さすれば!」  汐は禅問答のように黒翼に言葉を返す。同時に黒翼を取り囲んでいた水の渦が、いっそう狭まり、黒翼に迫る。 「日本は、終わる……! だから、枢の命をもらいに来た!」  黒翼はこれでもかというほど薄気味悪い笑みを浮かべると、そう言い放った。  同時に、汐の視界の片隅に映っていた草薙枢の姿がおかしな方向に歪んだ。 「!」  しまったと思った時には、すでに遅かった。  ゆっくりと──いや、汐はすぐさま行動したつもりだったが、汐には非常にゆっくりと感じられた──枢へと振り返るその視界の中で、枢の頭があり得ない方向に傾き、そしてそれはやがて胴体より離れ、ぐらりと重力によって下へ引っ張られていく。  その崩れゆく枢の頭の向こうには、二振りの刀を構えた、銀髪の巫女の姿があった。 「悪いね、汐、わたしは最初から囮だった」  歪みきった笑顔は、勝利を確信していた。  畳の上をごろりと枢の首が転がる音。  そして、真っ白なはずの汐の髪は、草薙枢からしとどにあふれる鮮血で、真っ赤に染まっていた。 「あ……あ……あ……」  汐は事態を飲み込めていないのか、身体を震わせながら、自分の足許に転がる枢の頭を抱きかかえた。 「たった今、高志(北陸)が日本海に沈んだ、次はどこが沈められるのかな?」  黒翼はそう言って、荒れ狂う水の渦をものともせず、その手を汐へと手向けた。 「クロちゃんの……クロちゃんの……」  だが、汐は黒翼の言葉に耳も貸さず、肩をふるわせる。 「あ、いかん。逃げろ!」  何かを察知した黒翼の姿が、一瞬で消える。  それを見たちあらも、軽く頷くと、地を蹴って大広間から飛び出した。  いつの間にかテトメトがちあらの頭に乗っていた。 「クロちゃんの、バカ────────!!!」  大声で叫ぶ汐の声と、建物が崩れるような音を後ろに聞きながら、二人と一匹は草薙旅館を後にしていた。 *  *  * 「おー、絶景かな、絶景かな」  田沢湖にほど近い山頂にから田沢湖を眺めながら、黒翼は満足そうに頷いた。  湖畔からは、田沢湖を覆い隠さんばかりの巨大な二柱の龍が、天に向かって昇っていくのが見える。 「あーあ、本当に呼び覚ましてしまったぬ」 「八岐大蛇に対抗するにはこれしか、ない」 「あとで何を言われても知らないぬ」 「北陸がなくなるほどの大惨事なのに? 下手したら、一〇〇万人以上死んでると思うよ?」 「………」 「ま、別にわたしが八岐大蛇を倒す義理もないけどね」 「とはいえ、あんなのに暴れられたら色々と面倒」 「うむ、わたしより目立つなんて、許せない!」 「そこかぬ」 「あ、こっちに気付いた」  ちあらが、空を見上げると、深編笠のツバをツイと上げた。  天空に登った二柱の龍がゆーっくりとこちらに向かってくるのが解る。 「お、いかん、まずはわたしらに一発お見舞いするくらいのことは考えてそうだ」 「あんなに荒い起こし方をしたら、怒るなって方がムリな話ぬ」 「とりあえず逃げよう」 「作戦はそのあとで!」 「まったく……」  二匹と一匹は滑るように山を下りていく。